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悲運の帝『崇徳上皇』

印刷用ページを表示する更新日:2021年6月24日更新

権力争いに敗れ讃岐に流された悲運の帝『崇徳上皇』

 

崇徳上皇 【1119(元永2)年~1164(長寛2)年】崇徳上皇

日本の第七十五代天皇で諱(いみな)を顕仁といいます。

鳥羽天皇と京三条烏丸の権大納言・藤原公実の息女璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれますが,『古事談』には,白河法皇と璋子が密通して生まれた子で,鳥羽天皇に「叔父子」と呼ばれ,嫌われていたと記されています。

1123(保安4)年に5歳で皇位につかれますが,1141(永治元)年,鳥羽上皇の命令により,天皇の位を近衛天皇に譲ります。

1155(久寿4)年 近衛天皇が崩御され,後白河天皇が即位し,1156(保元元)年に鳥羽法皇が崩御したことで,皇位継承問題や摂関家の内紛が表面化し,保元の乱が起こります。

この乱によって後白河天皇方との戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の地に配流され,その後二度と都の地を踏むことなく,1164(長寛2)年,46歳で崩御されます。

崇徳上皇ゆかりのスポット

(1)松山の津  (2)雲井御所  (3)長命寺跡 (4)鼓岡神社 

(5)八十場の清水 (6)高家神社  (7)白峯寺  (8)青海神社  

松山の津

 松山の津

 1156年(保元元年)7月,保元の乱に敗れた崇徳上皇は,讃岐の地に配流され、最初に松山の津に着いたそうです。

 松山の津の場所は,漠然としたことしかわかっていませんが、「津」には港という意味があり,平安時代に松山郷は入海で,現在の松山小学校付近まで海であったと考えられます。『綾・松山史』の編纂記念として、雄山の麓に松山津の石碑が建てられています。

 場所は特定されておりませんが、当時、松山の津は府中の国府に通じる重要な場所であったと考えられています。

 

 

雲井御所

 雲井御所

  崇徳上皇が讃岐の地に配流された時,まだ上皇の御所ができておらず,国府に勤める当地の庁官であった綾高遠の館を仮の御所としたといわれています。

 この仮の御所に,上皇は約3年間滞在されましたが,都とは違って草深い田舎の生活ゆえに淋しく,都を恋しく思い,『ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて』と歌を詠みました。この歌からこの仮の御所を雲井御所と呼ぶようになったといわれています。

 後世の綾川の洪水などで,雲井御所の場所がわからなくなっていましたが,1835年(天保6年)に,高松藩主松平頼恕が,場所を推定し,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立されました。

 

 

長命寺跡

長寿寺跡

 

 江戸時代の地誌『綾北問尋鈔』によると,長命寺は450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であり,こここそが雲井御所であったとする説もありますが,戦国時代に土佐の長曽我部の兵火によって焼失したとされています。

 『ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて』の歌も,長命寺の柱に書かれたもので,長曽我部の兵火が及んだときも,その歌の書かれた柱だけが,焼け残って立っていたといわれています。

 現在は,1917(大正6)年に建立された長命寺跡碑が,田んぼの中に建っているだけです。

 

 

鼓岡神社(つづみがおかじんじゃ)・擬古堂(ぎこどう)

 崇徳上皇は、雲居御所で過ごした後に、国府から見える小高い丘に建てられた御所(木ノ丸殿)に移りました。

新しい御所は、製材された木材で造られたものでなく、丸太で作られた粗末なものであったことから、木ノ丸殿と呼ばれています。

 木ノ丸殿に移り約6年。上皇は都からの便りを待ち望みながら,1164年(長寛2年)崩御されました。崩御の後,小さな祠を建て崇徳上皇を祀ったのが鼓岡神社です。

 ここには,かつて上皇が住んだ木ノ丸殿をまねた擬古堂が建立されています。また,神社の北には,上皇の飲料水として使用していたと伝えられる井戸(内裏泉)があります。

坂出市府中町乙5116

規定なし 休館日:無、 料金:無料、 駐車場:無

讃岐府中駅から徒歩で約11分

擬古堂(ぎこどう)

 擬古堂

鼓岡神社の石段を登った右手にあるこの建物は, 1913(大正2)年崇徳天皇750年祭の記念事業として建設されたものです。

讃岐での上皇の御所は木ノ丸殿と呼ばれ,とても粗末なものであったようです。

この建物も柱は丸木,棰は皮付きの木材を用いるなど当時の雰囲気を擬して造られているため,擬古堂と名付けられています。

坂出市府中町乙5116

規定なし 休館日:無、 料金:無料、 駐車場:無

讃岐府中駅から徒歩で約11分

 

 

八十場の清水

 八十場1164(長寛2)年8月26日,崇徳上皇は鼓岡で崩御されます。上皇の崩御は直ちに都に伝えられ,遺体の処置について都からの指示を待つことになりました。

夏の暑い時期に,遺体が腐敗することを避けるため,古来より霊水と伝えられている八十場の清水に浸したといわれています。

この清水は,坂出に伝わる悪魚退治の伝説にも登場する霊水でもあり,悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士がこの水を飲んだことで蘇生したことから,弥蘇場の水とも呼ばれます。(安庭・八蘇場・八十場・八十八などのいろいろな字が当てられて記されています)

別名野澤井とも言い,夏には涼を求め多くの人が訪れ,名物のところてんとともに親しまれています。

坂出市西庄町1635-4

規定なし 休館日:無、 料金:無料、 駐車場:無

八十場駅から徒歩で約7分

 

高家神社

崇徳上皇の遺体は,都からの指示により,八十場の清水から白峰山まで運ぶことにな高家神社りました。

遺体を運ぶ途中,いったん棺を休めていたところ,にわかに雷鳴をともなう風雨になり,棺を置いた六角の大きい石の上には,血がしたたり落ちたと伝えられています。村人たちはこれを恐れ,上皇の葬祭の後,高家神社の境内に石を納め,上皇の御霊を合祀しました。

このことから高家神社は,別名「血の宮」とも呼ばれています。

坂出市高屋町878

規定なし 休館日:無、 料金:無料、 駐車場:有

坂出駅から車で約20分琴参バス王越線高屋下車徒歩約8分

 

 

白峯寺

 白峯寺は瀬戸内の景勝地・五色台の山腹にある真言宗の寺で,四国霊場第八十一番札所です。崇徳上皇の廟であるほか,隣には御陵もあり,上皇ゆかりの寺として知られています。

白峯寺縁起によると,弘法大師と智証大師によって開基されたと伝えられています。

坂出市青海町2635 (白峯寺)

Tel:0877-47-0305 http://www.shiromineji.com<外部リンク> 

開門7時00分~閉門17時00分 ※正月三が日を除く

休館日:無、 料金:無料、 駐車場:有

坂出駅から車で約30分琴参バス王越線高屋下車徒歩約1時間

青海神社

 白峰山の麓にある神社で,西行法師の道のスタート地点にもなっています。青海神社は別名「煙の宮」とも呼ばれています。

崇徳上皇の遺体を白峰山の稚児ヶ嶽で荼毘に付したときの煙が,都をしたわれてか,東の方にたなびいてここに溜まりました。

これを見た春日神社の神官 福家安明が社殿を造営し,上皇の霊をお祀りしたことが,由来とされています。

一説には,煙はここで輪になり,その中に天皇尊号の文字が現われ,煙の消えた後には上皇が大切にされていた玉が残ったと伝えられています。

坂出市青海町759

規定なし 休館日:無、 料金:無料、 駐車場:有

坂出駅から車で約25分琴参バス王越線高屋局前下車徒歩約30分 


  崇徳上皇】…文化振興課