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讃岐五大師のひとり『理源大師』

印刷用ページを表示する更新日:2021年6月24日更新

民衆救済に生涯を捧げた、『讃岐五大師』のひとり『理源大師』

聖宝・理源大師 【832(天長9)年~909(延喜9)年】

理源大師

沙弥島で生まれた理源大師

聖宝・理源大師は、空海の実弟真雅を師として学んだ讃岐五大師の人であり,醍醐寺の開祖としても有名ですが、その出生にあたって、坂出市に深い係わりがある人物でもあります。

831年(天保8年),天智天皇の子孫であった父「葛声王(かどなおう)」が讃岐国の塩飽諸島に流されました。

その際,母・綾子姫は懐妊しており,832年(天保9年)讃岐国・沙弥島「天狗岩」にて大師を出産したという説話が残されています。(丸亀市の本島との説もあります。)

空海の孫弟子として真言密教を継承

幼少の頃から本島の正覚寺、宇多津の聖通寺で修業に励んだ恒蔭王は16歳で京に上ります。

貞観寺の門を叩き、空海の実弟・真雅(法光大師)に従い出家、聖宝を名乗ります。

以来、多くの名僧に師事し、56歳で真言密教の正統な継承者となり、874年(貞観16年)、京都に醍醐寺を建立しました。

それからの聖宝は、貞観寺座主、東寺長者、東大寺別当など数々の重職につき、909年(延喜9年)に78歳で没しますが、江戸時代の1707年(宝永4年)になってから、大師号を賜り、理源大師と称されるようになります。

聖宝にまつわる逸話

犬悶着

師の真雅は大の犬好きで、かたや聖宝は犬嫌い。

ある日、真雅が留守の時、門の前で犬を欲しそうにしていた漁師がいて、聖宝は真雅の犬を与えてしまいます。

帰宅した真雅は、「こんなことをする奴には同宿させることはできない」と怒ったそうです。

聖宝はそれを悔い、寺を出て母の眠る四国讃岐へ、行乞(托鉢)の旅に出たといいます。

手水と観賢

讃岐でのこと、聖宝は手を洗おうと、子供たちに水の在りかを訊ねたことがきっかけで、卓越した才能をもつ子に出会います。

親の了解を得てその子供を京へ連れ帰って修業させます。

その子供こそ後に醍醐寺初代座主、仁和寺別当、東寺長者、金剛峯寺座主を務め、空海に弘法大師の諡(おくりな)を下賜することに尽力した観賢その人だったのです。

坂出に残る理源大師の足跡

理源大師堂

理源大師堂

857年~858年頃,理源大師は故郷に戻り,病気の母を看病していましたが,間もなく母は亡くなってしまいます。

その弔いと民衆を救うため沙弥島にお堂を建てたのが理源大師堂とされています。

しかし月日がたつうち,島には人が住まなくなり,大師堂もなくなってしまいました。

その後1671年(寛文11年),溝渕庄兵衛が理源大師の木像を彫刻し,理源大師堂を再建したといわれています。

 

 

 

えなが岩

沙弥港の入口に鎮座する大きな岩で,大師の後産(胎盤)を埋め,大きな石をのせふたをしたものとされています。

この岩に触れるとお腹が痛くなる,という言い伝えがあります。

龍光院

理源大師によって881(元慶5)年,金山山腹(現在の坂出市江尻町)に建立されたと伝えられます。

当初は宝珠山龍光院として,摩尼珠院(現在の天皇寺高照院)に属していたとされています。

天正年間に長曽我部の戦火で焼失,近くにあった吉祥寺を併合しました。

その後,明治時代の神仏分離の際に讃岐国金毘羅別当金光院(金刀比羅宮)から広瀬宥理師が入寺,再興され現在の龍光院があります。