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万葉の叙情歌人『柿本人麻呂』

印刷用ページを表示する更新日:2021年6月29日更新

万葉集第一の歌聖「柿本人麻呂」

万葉の歌人柿本人麻呂が讃岐を訪れたのは持統天皇時代の690年頃とされています。柿本人麻呂のイメージ画像

西国に朝廷の使者として赴き,讃岐国の中の水門(現丸亀市金倉川河口付近)から船出して都へ向かう途中,風波を除けるために狭岑島(沙弥島)に立ち寄りました。

ここで,  たまたま海岸の岩の間に死者を見つけました。

その時詠んだ歌が地元で親しまれる「玉藻よし…」で始まる長歌があります。

人麻呂と坂出の縁がここで生まれ,沙弥島が「万葉の島」とも呼ばれる由縁です。

 

柿本人麻呂ゆかりの地

「沙弥島」は万葉集の歌聖としてあがめられた柿本人麻呂が詠った島として『万葉の島』ともいわれ,文学愛好者たちも多く訪れる場所となっています。

人麻呂歌碑

人麻呂が沙弥島で詠んだ和歌(長歌・反歌二首)が刻まれた碑,サヌカイトつくられています。

いずれも人間の真情を格調高く歌っており,万葉集を代表する歌人です。

柿本人麻呂は、文武天皇の御代(700年頃),西国に朝廷からの使者としておもむき,讃岐の 国、中の水門(みなと)-丸亀市金倉川口付近)を船出して都へ向かう途中、風波をさけるた めに狭岑島(沙弥島)に寄りました。

岩場にはすでに息絶えた死者が…。そんな姿を見た人麻呂が,死者への悼みと,死者の帰りを待つであろう妻子への思いを和歌に詠みました。

玉藻よし 讃岐の国は 国柄か 見れども飽かぬ 歌碑
神柄か ここだ貴き 天地 日月とともに 満りゆかむ
神の御面と 継ぎ来る 中の水門ゆ 船浮けて 
わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち
辺見れば 白波さわく 鯨魚取り 海を恐み 行く船の 梶引き折りて 
をちこちの 島は多けど 名くはし 
狭岑(さみね)の島の 荒磯面に いほりてみれば 
波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 
枕になして 荒床に ころふす君が 
家知らば 行きても告げむ 妻知らば 
来も問はましを 玉鉾の 道だに知らず 
おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しき妻らは

 

「柿本人麿碑」は坂出市出身の作家,中河与一氏が昭和11年に建立した与島の花崗岩製の石碑。

昭和63年,香川県国語教育研究会の手で「柿本人麿歌碑」が建立され,人麻呂の長歌と反歌二 首がかなまじり文で全文書かれています。

柿本人麿碑・オソゴエ浜

柿本人麻呂の詠んだ和歌の心を後世に伝えるため,坂出出身の作家中河与一氏が昭和11年に建立しました。

人麻呂碑

 

 

 

人麻呂岩

沙弥島の北端にある人麻呂岩は,人麻呂が沙弥島に漂着の際,和歌に詠んだ“死者”を視た場所といわれています。

文学碑「愛恋無限」

 文学碑「愛恋無限」

中河与一氏の小説「愛恋無限」では,最終章で沙弥島が舞台となり,人麻呂の長歌も登場します。

これを記念し、昭和52年(1977)に建てられたのが文学碑「愛恋無限」。

 文化勲章を受章した谷口吉郎が設計を行い,碑面の陶板は人間国宝の藤原啓の手によるものです。