白峯寺
白峯寺
白峯寺縁起によれば,当山は弘法・智証大師によって開基されたと伝えられています。古くより霊山として信仰され,崇徳上皇が崩御された後に西行がその御陵をもうでるなど,この地は綾北の郷土史を考える上で重要な場所です。
ところで,白峯寺は建造物をはじめ,絵画・工芸品・書跡など数多くの指定文化財が所蔵されています。中でも参道横に建つ十三重塔2基は,鎌倉時代の多層塔の様式を今に伝える重要文化財です。そのほか,五重塔・頓証寺横の石灯籠や少し離れたところにある笠塔婆などの建造物もあります。
工芸品では,木造吉祥天立像・不動明王座像・十一面観音立像などが指定されており,絵画では,金剛界,胎蔵界の両界曼陀羅などがあります。
また,中世から近世にかけての領主の寄進状(千石秀久寄進状,生駒近規・一正寄進状)や,妙法蓮華経といった書跡類など,多くの品々が秘宝として宝物庫に保管されています。
十三重石塔
鎌倉後,末期建立の十三重石塔で,西塔は「元亨四(1324),金剛佛子」の銘があり,東塔は弘安元年(1278)の建立です。
東塔は板石を組み合わせた基壇で,基壇から七重までの内部を空洞とし,塔身の種子も不動三尊を刻んだ珍しいものです。 四国の石塔中第一のもので,この塔の上方は塔ノ峯ともいい,無数の各種石塔が埋もれています。
白峯寺客殿(書院)
延宝年間(1673~1680)に高松藩主が寄進した建物で,入母屋造,本瓦葺の客殿です。 県下では金刀比羅宮書院に次ぐもので,桁行の方向に左右三間続きの典型的な客殿方式で,上段の間に付書院や違棚,上段の間,二の間,三の間の筬欄間などに江戸初期の特徴があります。
勅額門
頓証寺の随身門であり,左右に保元の乱で崇徳天皇を守った源為義・為朝父子の武将像が置かれていました。 正面に額字伝の書方による「頓證寺」の扁額がかかげられていますが,現在のものは模刻であり,この額は足利義持の奏請によって後小松天皇の御宸筆になるもので,応永22年(1415)奉納され掲げられたものでこの門を勅額門と呼ぶようになりました。
実物は宝物館に収蔵されており,耳字形・黒漆塗・金箔散しで,重要文化財に指定されています。
頓証寺殿
崇徳上皇の霊廟であり,建久2年(1191)遠江阿闍利章実が鼓岡の行在所を移して上皇の自画像を奉安し,頓証菩提を弔ったのにはじまるといわれています。
現在の建物は延宝8年(1680)高松藩主松平頼重・頼常が再建したものです。
拝殿は檜皮葺き・前面蔀戸・庭前に橘と桜を植えて,御所の建物を真似ています。 奥殿は三棟で,中央に御尊影,左に白峯大権現相模坊,右に御念持仏十一面観音を祀っています。
西行法師石像
保元物語によると,仁安3年(1168)白峯御陵(崇徳院)の御陵に詣でた西行は,陵前に座ってお経を繰り返し読み,「よしや君むかしの玉の床とても,かからんのちは何にかはせん」の歌を奉ったと云います。 このことについては謡曲松山天狗,雨月物語,二日物語など室町時代以後の文学の題材となっています。 西行像は文政の頃,後人がこれを偲んで「西行腰掛石」と伝えられる石上に安置したものであります。 傍らにサヌカイトに刻まれた西行の歌碑があります。
頓証寺石燈籠
源頼朝の寄進したものと云われていますが,竿には文永四季(1267)の銘がかすかに残っています。
頓証寺型燈籠と呼ばれる鎌倉期の代表的石燈籠で,眞弧の曲線を画く笠,直立する蕨手,大きな火袋など鎌倉時代の特色があります。
この奥は崇徳天皇御陵で,崇徳天皇が書写された五部大乗経の奥書に著されたという御製が,サヌカイトに刻まれて建立されています。
白峯寺本堂・千体阿弥陀堂
【本堂】
【阿弥陀堂】
石段を登ると,本尊千手観音を祀る白峯寺本堂や大師堂などの堂宇が並んでいる。
本堂の北に南面する宝形造りの阿弥陀堂は正面蔀戸・両側面連子窓の江戸初期の建物で,白峯寺堂宇の中では最も古く,堂内中央に阿弥陀三尊が安置され,後方に木造阿弥陀小立像千体が五段に並べ安置されていて,千体堂とも呼ばれていて,17世紀末期に再建されたものが多くあります。
この本尊阿弥陀仏の体の中には,高松藩主松平頼重の遺髪が収められているとも云われており,万治年間高松藩は,この阿弥陀堂の供養料として十石を寄進しています。
本堂と阿弥陀堂の間には,珍しい石造瑜祇塔があり,その後方には勧請塚と呼ばれる積石の円形石壇があります。
白峯御陵
長寛二年(1164年)8月26日,46歳で崩御された崇徳上皇は,遺骸を八十場の泉に浸さた後,都からの検視を経て白峯に送られ荼毘に付され,その場に葬られ,その地を御陵としました。陵は,積み石の方墳であったと云われています。
都から遠く離れた地の御陵であったため,江戸時代には荒れていたといわれています。
初代高松藩主頼重,五代頼恭,十一代頼聡らにより,修復が重ねられ,参拝口を現在の南面に改めるなど,今日見るように整備されました。
陵域約1ヘクタール。
下乗石(摩尼輪塔)
この塔は参道が聖地(窮極位)に達したことを表す塔婆で,もとは白峯への高松参道(猪谷),伊予参道(神谷),丸亀参道(西寺)に建立されていましたが,原形を保つのはこの猪ノ谷の1基だけです。
方柱塔身の下方に「下乗」と刻まれその上に金剛界大日如来の種子バンを刻んだ月輪(摩尼輪)を取り付けた総高約2メートルの珍しい摩尼輪塔です。 塔身左側には「元応三季二月十八日」(1321),右側には「願主金剛佛子宗明敬白」との刻銘があります。
この塔の横の下乗石は松平頼恕が天保7年(1836)に,この古塔を保存する意志を著した添え碑であります。
昭和12年頃のパンフレット
坂出市松山公民館(出張所)から,昭和12年頃のものと思われる「白峯と坂出案内」というパンフレット(77cm×18cm)が見つかり,当時の塩田風景や建物等が細かく地図に書かれており,大変貴重なものです。
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