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ぶんぶんレポ「あやきたディープ石室(チャンバー)」をレポート!

印刷用ページを表示する更新日:2016年3月18日更新

あやきたディープ石室(チャンバー)

いきなりですがみなさん、坂出に古墳っていくつあると思いますか?

坂出市教育委員会の遺跡台帳によると、なんと約100基もの古墳が確認されています。もちろんこれは現在まで残っているものの話。

かつてはこの数倍もの古墳が、この坂出に作られていたはずです。これらの古墳のうち、「横穴式石室」を持つものに、行けるだけ行ってみました。

ちなみに「あやきた=綾北」とは、昔の地名「阿野郡(あやぐん)」の北を指す言葉で、だいたいですが坂出市の東側の地域にあたります。

また、たくさんの古墳をめぐり、横穴式石室を見学するということは、それぞれの石室の特徴や個性を理解するには、もってこいの機会でもあります。ただし、そうした細かな特徴を見つけ、分かりやすく伝えるのは少々難しいところです。

そこで今回は、横穴式石室の専門家でもある、徳島文理大学の大久保徹也(おおくぼ・てつや)教授に解説をお願いしました。

 

大久保教授

この方が大久保教授。分かりやすく面白い解説は本当に好評でした。

石室の奥深く(ディープ)で、石室についての深い(ディープ)話を聞く。これが今回の講座の狙いです。
 

また、多くの古墳をめぐるといっても、割と近い位置に集まっているため、バスでの移動が必要だったのは、3つのエリアの間だけです。

そこからは徒歩でも楽に(人によりますが…)古墳を巡ることができます。

山樋地区

さっそくですが最初のエリアである加茂町山樋地区の、1基目の古墳にやってきました。

鴻ノ池古墳群1号墳

ここは加茂町の鴻ノ池というため池の堤防の上です。

ため池に古墳?と思われるかもしれませんが、じつはこの池の中には・・・

鴻ノ池古墳群1号墳玄門

こんなものが眠っているのです!

ただし池の水がある限りは見えません。上の石がうっすらと水面に姿を映している程度です。

上の写真は池の改修の時のもので、ここまで姿を現すことはもう50年はないかもしれません。

 

横穴式石室には人を葬った部屋、玄室(げんしつ)とそこに行くまでの通路、羨道(せんどう)がありますが、これはその玄室と羨道のあいだの門(玄門(げんもん)と言います。)だけが残ったものです。

 

まさに驚くべき奇跡です!

そうそう、この古墳には「鴻ノ池古墳群1号墳」という名前が付けられています。古墳は基本的に地名+見つかった順番という無機的な命名をされています。

それではちょっと愛着も持ちにくいのでは、ということで、今回は参加者の方に、古墳の愛称も考えてもらうことにしました。色々行き過ぎてお疲れになってしまったのか、考えられたのが少なかったのが残念ですが・・・。

しかしせっかくなので、その中でも最もふさわしいと思ったものを、この場を借りて発表させていただきたいと思います。

この古墳は・・・「ドルメンちゃん」。

ドルメン=支石墓とは、本当にこのまんまの形の、古墳とは別のお墓です。

 さて、次の古墳も近くにあります。 

サギノクチ古墳群1号墳
※写真左の覆屋の下に石室があります。

ここはサギノクチ古墳群1号墳、通称「木の葉塚」です。

石室に絵が描かれており、それが木の葉のように見えるためこう呼ばれています。

線刻画(木の葉)
こんな絵(線刻画(せんこくが)といいます。)が石室内のあちこちに描かれています。

坂出市指定文化財にもなっており、訪れたことがある人もいるのでは?

しかしこの古墳のすぐ近くに、もう一つの古墳があることを知っている人は少ないはずです。

サギノクチ古墳群2号墳

こちらがそのサギノクチ古墳群2号墳。少し小さな古墳です。

藪に埋もれていたのですが、地元保存会の方の草刈りにより、(たぶん)30年ぶりに人目に触れることになったものです。

残念ながら天井石が崩落しているため今回中には入りませんでしたが、ここも線刻が見られる石室です。

次はそこから少し離れたところにあるお宮山古墳です。

お宮山古墳石室
石室内部。壁は小さな石が目立ちます。

ここもあまり行ったことのある人がいないのではないでしょうか。サギノクチ古墳群2号墳よりもさらに小さく、また石室の作り方にもだいぶ簡略化が見られるため、おそらく綾北平野では最も新しい部類の石室だろうと思われます。

続いて鴻ノ池まで戻り、池の北にある鴻ノ池古墳群4号墳と5号墳を訪ねました。

鴻ノ池古墳群4号墳
鴻ノ池古墳群4号墳。こちらは本当は石室の奥の方なのですが…。

この2基は一部損壊があり、4号墳の方は石室の奥の方の天井と壁が、5号墳は石室全体の上半分くらいがなくなっています。しかしそのおかげと言っては良くないかもしれませんが、石室の石の積み方や、土の盛り方など、立体的な構造の情報がよく分かるという一面も持っています。

そして最後に、このエリアで最大の石室を持つ、穴薬師古墳に行きました。

穴薬師古墳
石室の広さ、分かるでしょうか。玄室だけでだいたい6畳半あります。

ここも坂出市指定文化財であるため、見学された方もおられると思います。

そして、来られた方には分かると思いますが、なんといっても長い!広い!石が大きい! 

でもこれぐらいの石室が、実は綾北平野にはまだまだ潜んでいるのです。

 

このあとみなさんには、第2のエリアである加茂町北山地区と、第3のエリアである西庄町醍醐地区を回ってもらい、合計14基の古墳に足を運びました。本当は一つ一つ紹介したいのですが、とんでもなく長くなってしまうので、今回は印象的なニックネームを付けていただいた醍醐地区の3基のみ、画像付きでご紹介いたします。

醍醐地区

まずは醍醐古墳群2号墳。今のところ綾北平野最大の広さの玄室を持っています。

醍醐古墳群2号墳

「大口君」というニックネームがあり、そんな感じだったかなーと思って写真を見返しましたが、確かに口を大きく開けた生き物のように見えますね。

歯が見えないので丸のみタイプの食事をするのでしょうか。玄門がきれいに作られていることと、羨道部も広いことがポイントなのかもしれません。

次に2号墳よりほんの少し上にある醍醐古墳群4号墳。

醍醐古墳群4号墳

この古墳は、なんと石室の上に巨木が生えています。

そんな訳で付けられた名前は…「ラピュタ」。

空の彼方に消えて行ってしまわないことを願います。

最後も2号墳の近くにある、醍醐古墳群3号墳。ここも大きな石室を持っています。

醍醐古墳群3号墳

ここは「古(こ)わ~くん」というものが印象に残りました。

写真ではあまり伝わらないかもしれませんが、石室の大きさといい、大地の裂け目のような入口(天井の崩落と土の堆積によりこうなっています)といい、本当に黄泉への洞窟のような雰囲気を持った古墳です。

一人で夕方ころに調査に来た時、早く出たくてしょうがなかったことを思い出しました。


最後になりましたが、大久保教授は、何と今回の講座のために「綾北平野の巨石墳」という小論文を作成してくださいました。

 

 

その論文はこちら →「綾北平野の巨石墳」 [PDFファイル/4.83MB]

大久保教授によると、古墳が作られた時期の幅が、ひときわ重要な意味を持っているようなのです。

 

 

というのも、綾北平野の横穴式石室墳、特に大きな石室を持つようなものは、6世紀末から7世紀初頭にかけて造られはじめ、7世紀半ばには造られなくなってしまうとのことです。つまりはたったの50年程度ということになり、せいぜい二世代、三世代ぐらいの有力者が造らせたということになります。

その割に古墳の数がやたらと多く、かつ6世紀末より前の古墳がほとんど見当たらないことから、複数の有力者のグループが、この時期に綾北平野に集まってきた、と想定できるようです。

 

この後、綾北平野では、古代山城である城山、そして讃岐国府とビッグプロジェクトが進行していくことになります。その直前に起こった、多数の大古墳の築造。本当に興味の尽きない話です。


 「いにしえのロマンのまち さかいで」の魅力が、また一つ発見できた講座になったと思います。


 

なお、今回訪れた古墳についてですが、場所が分かりにくかったり、個人の敷地の中にあったりするものもあります。怪我をしてしまったり、地域の方に迷惑をかけたりしないためにも、見学や資料をご希望の方は、ひとまず文化振興課までお問い合わせください。

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