ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

崇徳上皇

コスモス
印刷用ページを表示する 掲載日:2006年12月1日更新

讃岐での生活

 保元の乱に敗れた崇徳上皇は,讃岐へ流され,林田の雲井御所(くもいごしょ)で約三年過ごした後,国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
 木ノ丸殿での上皇は,一日中部屋にこもり,書物を読んだりお経を唱えたりしていましたが,一心に毎日お経を写し始め,三年もかかり多数の写経をし,下記の和歌を添え京都に送りました。
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」 崇徳上皇としては,後の世のためを思い一心に写したお経だったため,讃岐のような田舎へ置いておくのがつらく,都に近い八幡山か高野山か,もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていました。
 しかし,京都の朝廷は,罪人の写したお経はよいお経のはずがないと受け取らず,崇徳上皇のもとに送り返してしまいました。
 崇徳上皇はたいへん悲しまれたと云われています。
 このお経は,後に崇徳上皇の子どもの元性法印の手で保管されたと吉田経房の日記『吉記』に書かれています。
 お経が送り返されてからというもの,上皇は食事をあまりとらず,髪もとかず,爪は長く伸ばし放題にしていて,その様子は天狗のように恐ろしげだったと伝えられています。

崇徳上皇略年表

西暦和暦できごと
1119年元永2年鳥羽天皇の第一皇子として生まれる。
1123年保安4年天皇の位につく。
1129年大治4年白河法皇崩御。 鳥羽院政始まる。
1141年永治元年鳥羽上皇の命令で,天皇の位を弟の近衛天皇に譲る。
1155年久寿4年近衛天皇亡くなり,後白河天皇が即位する。
1156年保元元年7月11日 保元の乱が起こる。
7月23日 崇徳上皇,讃岐に流される。
8月10日 崇徳上皇,松山の津に着き,雲井御所に入る。
1158年保元3年4 崇徳上皇,鼓岡の木ノ丸殿に移る。
1164年長寛2年8月26日 崇徳上皇,鼓岡で亡くなる。
9月18日 崇徳上皇を白峰山頂で荼毘に付し,御陵をつくる。
10. 二条天皇,八十場に白峰宮をつくる。
1177年治承元年7. 朝廷,上皇に「崇徳」の号を贈る。
(崇徳の諡号を贈られるまで,讃岐院と呼ばれていた。)

崇徳上皇ゆかりの地

松山の津(まつやまのつ)

「松山津」の石碑の写真 保元元年(1156年)7月,保元の乱に敗れた崇徳上皇は,最初に松山の津というところに着船したと伝えられています。
 この松山の津については,石碑などの手がかりも残っておらず,当時の松山郷の海岸付近といった漠然としたものでした。
 津といった言葉から,港を想像しますが,松山は古くから条理制(じょうりせい)地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもありました。
 また,今の松山小学校付近からは弥生時代の製塩土器などが発見されるなど,古代には,海岸線が今よりも内陸まで入り込んでいたことが推測されます。
 昭和61年に刊行された『綾・松山史』では,港の自然的な立地条件などを検証した上で,雄山の北東の麓を松山の津と推定しています。
『綾・松山史』の編纂記念として,現在この地に「松山津」の石碑が建立されています。

雲井御所跡(くもいごしょあと)

雲井御所之碑の写真

 保元の乱に敗れ,讃岐の松山の津へ着船された当時,上皇の御所がまだ出来ていなかったため,国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられています。
 この最初の御所について,『保元物語』は,松山の御堂に入られたと伝え,『白峯寺縁起』には,上皇は高遠の御堂にて三年を過ごされたと記されています。
この仮の御所で毎日を過ごされた上皇が詠まれた歌に,
「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」というものがあります。この歌にちなんで雲井御所と呼ばれるようになったといわれています。
 その後,天保六年(1835年)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立されました。

長命寺跡(ちょうめいじあと)

長命寺跡碑の写真 長命寺はその昔,450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であったとされ,長曽我部襲来の際の兵火により消失したと伝えられています。
 江戸時代の地誌『綾北問尋鈔(あやきたもんじんしょう)』には,雲井御所はこの長命寺であったと記され,崇徳上皇の仮御所として自邸では不敬があってはならないと考えた綾高遠が,すぐ傍の長命寺に移されたのだと伝えています。
 上皇は,この長命寺境内に近くの武士を集めて射芸を楽しまれたり,歌を詠まれたりして過ごされました。
 「ここもまた・・・(前項雲井御所を参照)」の歌も,長命寺の柱に書かれたとも伝えられていて,長曽我部の兵火が及んだ際も,この宸筆の柱だけが一本立っていたと伝えられています。
 今は,大正六年に建立された長命寺跡碑が,田の中に一本だけまっすぐ建っていて,かつての長命寺を偲ぶよすがとなっています。

姫塚(ひめづか)

姫塚の写真

 雲井御所にお住まいになられたころ,崇徳上皇を気付かった綾高遠は,何かと不便があってはならないと,自らの娘である綾の局(あやのつぼね)に上皇の身の回りの世話をするように命じたと伝えられています。
 やがて,上皇と綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが,幼くして亡くなられたと伝えられます。この姫塚はその皇女の墓であるとされています。
 長命寺の西方にある田んぼの中にあり,現在はコンクリート壁に囲まれた中に石碑が建てられています。

菊塚(きくづか)

 菊塚の写真崇徳上皇が雲井御所で過ごされていたときに,綾の局との間に皇子と皇女が誕生しましたが,上皇はこの皇子を顕末(あきすえ)と名付けられ,菊の紋をつけて綾の局の父,綾高遠に賜り,綾家の跡継ぎにされたと伝えられています。この皇子の墓は,府中町鼓岡の北にあり,菊塚の名称で呼ばれています。
 石を積み上げた塚で,現在は民家の庭先に位置しています。

擬古堂(ぎこどう)

擬古堂の写真保元三年(1158年)ごろ,崇徳上皇は雲井御所から府中の鼓岡の木ノ丸殿に移られました。木ノ丸殿とは,木の丸太で造った御所といった意味合いで,御所としては粗末な造りではなかったかと考えられています。
 大正二年に崇徳上皇の75O年祭に合わせて,鼓岡神社の石段を登った右手に記念建造物が建設されました。
かつての木ノ丸殿を偲ぶといったことから,擬古堂と呼ばれ,屋根など古風な造りの外観から,少しでも当時を思い浮かべることができるように造られています。

鼓岡神社(つづみがおかじんじゃ)

 崇徳上皇が御所とされた木の丸殿があった場所であり,崩御の後,小さな祠を建てて祀られたものです。

鼓岡の地名の由来

 鼓岡という名前は,丘の頂上辺りで地面を叩くと,コツコツという鼓のような音がしたからだと云われています。

鴨川の地名の由来

 雲井御所にいる三年の間,上皇は京都が恋しくて仕方がありませんでした。そこで,前を流れる綾川を京都の川の名をとって鴨川と呼んだそうです。それが地名として今日まで残っているという説があります。
 西山や東山という地名も,崇徳上皇がつけたとされています。

   

内裏泉(だいりせん)

内裏泉の写真 近代の大干ばつにも枯れなかったという霊泉で,崇徳上皇が木ノ丸殿に住んでいた際,飲料用の井戸として使われたと伝えられています。
 地元の人は,この水を汲めば目が見えなくなるといって大切にしていたそうです。

ほととぎす塚

ほととぎす塚の写真 雲井御所から鼓岡の木ノ丸殿に移られた崇徳上皇は,訪れる人もない寂しい日々を木ノ丸殿で過ごされました。
 鼓岡神社の石段の右手には小さな五輪塔が2つほどあります。これは上皇が鼓岡で過ごされていたころ,ある日ホトトギスの声を聞かれて都を深く思い出され, 『なけば聞く 聞けば都の恋しさに この里過ぎよ 山ほととぎす』 とお詠みになられたところ,これを聞いたホトトギスは,自らさえずるのをやめたという言い伝えによるものです。
 その後も,鼓岡の周辺ではほととぎすが鳴かなくなったといわれ,昔はこの地をなかずの里と呼んだといわれています。

わん塚(わんづか)

わん塚の写真 鼓岡神社の北方,菊塚の北東の畑の中に,大きい一枚の岩に「(わん)塚」と刻まれた自然石が残っており,崇徳上皇が使用された食器を埋めた場所との由来があります。
 この付近は,古代讃岐の国府が置かれた場所でもあり,発掘調査では当時の土器や陶器などが数多く出土しています。

柳田(やなぎだ)

柳田に建っている石碑の写真

JR予讃線沿いに,小さな石碑の建っているところがあります。ここは柳田といわれ,崇徳上皇が殺害された所だといわれています。
 崇徳上皇は長寛二年に崩御しますが,その死因について『保元物語』や『平家物語』等には特に記述がありません。ただし,江戸時代の地誌である『讃州府誌(さんしゅうふし)』には二条天皇が上皇の暗殺を命じ,三木近安(みきちかやす)という武士が鼓岡を襲撃したということが記されています。近安の襲撃を逃れた上皇は,大きな柳の樹の穴に隠れましたが,その隠れた姿が池の水面に映り,見つかって殺害されたとされています。
 その後,この地に柳を植えても,枯れるばかりで決して育たなったそうです。

野澤井(のざわい)

野澤井の写真 長寛二年8月26日,崇徳上皇は鼓岡で崩御されます。坂出に配流されてから8年目のことでした。そしてこのことは直ちに都に伝えられ,上皇の遺体の処置について朝廷の指示を仰ぐこととなりました。
夏の暑い時期でもあり,都からの指示を待つ間,古来から霊水と伝えられる野澤井の清水に浸して,遺体が腐敗することを避けたと伝えられています。
この野澤井とは,今の西庄町八十場の清水付近の古い呼び名です。
 この清水は,坂出に伝わる悪魚退治の伝説に登場する霊水でもあり,悪魚の毒気に倒れた八十八人の兵士がこの水を飲んだことで蘇生したため,弥蘇場(やそば)の水とも呼ばれます。(「やそば」については弥蘇場のほか,安庭・八蘇場・八十場・八十八などいろいろな字が当てられて記されています。)
 今も昔と同様,夏に涼しい場所であり,多くの人が涼を求めて賑わっています。

白峰宮(しろみねぐう)

白峰宮の写真 崇徳上皇を祀るこの神社は,上皇の崩御の後に二条天皇によって社殿が建てられたと伝えられています。
 上皇の遺体が野澤井の水に浸されてから白峰山にて荼毘に付されるまでの間,毎夜,付近の霊木に神光があったそうで,当時の社殿はその場所に設けられていたそうです。このため,「明の宮(あかりのみや)」とも呼ばれるようになったそうです。
 上皇崩御の後,高倉天皇は「讃岐院」と呼ばれていた上皇に「崇徳天皇」と追謚(ついし)され,稲税を納めたと伝えられています。また源頼朝も稲税を納めて,下乗の立礼を建てたとされますが,残念ながら当時の社殿は天正年間に焼失してしまいました。
 現在の社殿はその後に再建されたもので,今も周辺の人々から手厚く祀られ,「天皇さん」の名称で親しまれています。

高家神社(たかやじんじゃ)

高家神社の写真 昔からここには高家首(たかやおびと)の一族が居住し,遠い祖先である天道根命(あめのこやねのみこと)をお祀りして氏神としました。里の人には森の宮とも呼ばれ,貞観九年従五位下を奉られています。
 崇徳上皇崩御ののち,白峰山に遺体を運ぶ途中,高屋村阿気(あけ)という地に棺を休めた時,にわかに風雨雷鳴があり,棺を置いた六角の石に,どうしたことか血が少しこぼれていたといいます。
 葬祭の後,里の人は上皇の神霊を当社殿に合祀し,また,血のしたたった石も社内に納めました。俗に血の宮と称される理由です。
また,朱(あけ)の宮ともいわれています。
地名の阿気(揚)も,そこから出たことなのかもわかりません。
 崇徳上皇の他に,天道根命・待賢門院(たいけんもんいん=崇徳上皇の生母)・大鞆和気尊(おおともわけのみこと=応神天皇)をお祀りしています。

白峯御陵(しらみねごりょう)

白峯御陵の写真 長寛二年(1164年)8月26日,46歳で崩御された崇徳上皇は,遺体を八十場の泉に浸さた後,9月16日に白峰山で荼毘に付され,その場に葬られました。お墓である御陵は,積み石の方墳であったといわれています。
 都から遠く離れた地の御陵であったため,江戸時代には荒廃していたといわれています。
初代高松藩主松平頼重(まつだいらよりしげ),五代頼恭(よりたか),十一代頼聡(よりとし)らにより,修復が重ねられ,参拝口を現在の南面に改めるなど,今日みられるように整備されました。

青海神社(おうみじんじゃ)

 白峰山の麓にある神社で,西行法師の道のスタート地点にもなっています。
 崇徳上皇の遺体を白峰山にて荼毘に付した際,たなびいた煙がこの地に降りて文字になり,消失した後に一つの玉が残りました。
この不思議な現象に心をうたれた福家安明が社殿を造営し,上皇の霊をお祀りしたことが,この神社の由来とされています。

頓証寺殿(とんしょうじでん)

 不運の最期を遂げた崇徳上皇の木ノ丸殿をここに移し,その頓証菩提(とんしょうぼだい)を弔ったところから,頓証寺と呼ばれる御廟所です。
 応永二十一年(1414年),後小松天皇から頓證寺と書かれた勅額(ちょくがく)を賜ったのにちなんで,頓証寺殿と呼ばれ,また勅額を掲げた山門を勅額門と呼ぶようになりました。
 現在の建物は,頓証寺殿,勅額門ともに延宝年間(1673~1681年)松平頼重の再建といわれています。

西行法師の道(さいぎょうほうしのみち)

西行法師の道の写真 崇徳上皇が白峰山に葬られてから3年後,歌人として有名な西行法師が坂出を訪れました。
 西行法師は諸国をめぐる旅の途中にあり,上皇の霊を弔うために坂出に立ち寄ったのです。
 すでに荒れてしまっていた御陵にて,怒れる上皇の霊と対面した西行法師は,「よしや君 むかしの玉の 床とても かからん後は 何にかはせん」
 と詠い,上皇の怒りを鎮めたそうです。  この場面は,江戸時代の小説『雨月物語(うげつものがたり)』に臨場感あふれる描写で書かれていることでも有名です。
 現在,青海神社から白峯御陵へと至る道は「西行法師の道」として整備されており,その道すがらには,上皇と西行の歌碑がいくつも建てられています。