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悲運の帝「崇徳上皇の足跡を追う」

コスモス
印刷用ページを表示する 掲載日:2013年7月9日更新

平成24年度NHK大河ドラマ「平清盛」が放送され、その中で俳優の井浦新さんが演じた
崇徳上皇と坂出市には、深い関係があるということをみなさんはご存知ですか?

そもそも、崇徳上皇とは第75代天皇で諱(いみな)を顕仁(あきひと)といい、
鳥羽天皇と璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれますが,『古事談』には,白河法皇と璋子が
密通して生まれた子で,鳥羽天皇に「叔父子」と呼ばれ,嫌われていたと記されています。

1123(保安4)年に5歳で皇位につかれますが,1141(永治元)年,鳥羽上皇の命令により,
天皇の位を近衛天皇に譲ります。1155(久寿4)年 近衛天皇が崩御され,後白河天皇が即位し,
1156(保元元)年に鳥羽法皇が崩御したことで,
皇位継承問題や摂関家の内紛が表面化し,保元の乱が起こります。

この乱によって後白河天皇方との戦いに敗れた崇徳上皇は讃岐の地に配流され,
その後二度と都の地を踏むことなく,ここ坂出にて1164(長寛2)年,46歳で崩御されます。

このツアーでは崇徳上皇にまつわる坂出市内のスポットを巡ります。

崇徳上皇パンフレット [PDFファイル/15.02MB]

雲井御所(くもいごしょ)跡

崇徳上皇が讃岐の地に配流された当時,まだ上皇の御所ができておらず,国府に勤める
当地の庁官であった綾高遠の館を仮の御所としたといわれています。
この仮の御所に,上皇は約3年間滞在されましたが,都とは違って草深い
田舎の生活ゆえに淋しく,都を恋しく思い次の歌を詠みました。

「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」

この歌から、この仮の御所を雲井御所と呼ぶようになったといわれています。
綾川の洪水などを要因に,雲井御所の場所がわからなくなっていましたが,1835(天保6)年に,
高松藩主松平頼恕が,場所を推定し,現在の林田町に雲井御所之碑が建立されたそうです。

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長命寺跡

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長命寺とは、江戸時代の地誌『綾北問尋鈔』によると450メートル四方の境内地に仏閣が並ぶ寺院であり,
長曽我部の兵火によって焼失したとされています。
雲井御所は、長命寺の敷地内にあったと考える人もいるそうです。
また、「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」の歌も,
長命寺の柱に書かれたもので,長曽我部の兵火が及んだときも,その歌の書かれた柱だけが,
焼け残って立っていたと言われているそうです。

現在は,1917(大正6)年に建立された長命寺跡碑が,田んぼの中に建っているだけです。

擬古堂(ぎこどう) / 鼓岡神社

鼓岡神社の石段を登った右手にあるこの建物は,1913(大正2)年崇徳天皇750年祭の
記念事業として建設されたものです。

上皇の御所は木ノ丸殿と呼ばれ,とても粗末なものであったようです。

この建物も柱は丸木,棰は皮付きの木材を用いるなど当時の雰囲気を
擬して造られているため,擬古堂と名付けられています。

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また、鼓岡神社には歌人としても有名であった崇徳上皇の代表的な歌が
刻まれた石碑もあります。

「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」

(川の流れが速いので、岩にせき止められた急流が、1度は2つに分かれても
後には必ず一つになることでしょう)

この歌を、恋愛の歌と考える方と、鳥羽天皇と崇徳上皇のことを詠んだと考える方がいるそうです。

八十場の霊泉

八十場 八十場

1164年8月26日,崇徳上皇は鼓岡で崩御されると、上皇の崩御は直ちに都に伝えられ,
遺体の処置について都からの指示を待つことになりました。
夏の暑い時期に,遺体が腐敗することを避けるため,古来より霊水と伝えられている
「八十場の霊泉」に浸したといわれています。

これは,坂出に伝わる悪魚退治の伝説にも登場する霊水でもあり,悪魚の毒に倒れた88人の
兵士がこの水を飲んだことで蘇生したことから,弥蘇場の水とも呼ばれます。
(安庭・八蘇場・八十場・八十八などのいろいろな字が当てられて記されています)

夏には涼を求め多くの人が訪れ,江戸時代から続く名物のところてんとともに親しまれています。

山のお旅所「白峰パークセンター」

パークセンター  バークセンター

休館していた白峰パークセンターですが、現在は「山のお旅所」として生まれかわって再オープンしています。
(営業時間:9時~4時 定休日:月・火曜日)

パークセンター名物「押し寿司とうどんのランチ」を食べることができます。

白峯御陵

白峯御陵 白峯御陵

第81番札所白峯寺の北側に崇徳天皇白峯陵があります。
天皇や皇后、上皇などの墓所である御陵は、一般に京都や奈良など当時の都の近くに造られており、
都から遠く離れた所に造られているのは、下関の安徳天皇陵と淡路島の淳仁天皇陵、
そして、ここ白峯陵だけだそうです。

西行の道

西行の道

青海神社(煙の宮)のすぐ隣から、西行法師が崇徳上皇の御霊前を訪ねた際に通ったとされる
山道が整備されています。

「西行法師と白峯伝承」
平安末期の仁安年間(1166〜68)はるばる讃岐の国松山の地に杖を引き、この地
に悲憤のご生涯を閉じられた崇徳院のご霊前に鎮魂の香華を捧げた一人の歌僧がいた。
その名を西行と号し法名を円位と称した。俗名は佐藤義清。二十三歳の時に故あって
武を捨て出家遁世、はじめ京の嵯峨野に草庵を結んだ。以来河内の国の弘川寺に七十
三歳で入寂するまでの五十年間にわたって、高野山・伊勢・吉野・善通寺など各地に草庵
を結び、玲瓏の境地に世を逃れ、風流三昧の境涯にひたすら詞藻を深めた。その間二〇
〇〇首に余るとされる卓抜不朽の歌を後世に遺し、歌聖として広くその名を知られた。
その代表をなすものが、西行の自家集「山家和歌集」である。
西行は自らの歌を「一首読み出ては一体の佛像を造るの思いをなし一句を思ひ続けて
は秘密の真言を唱ふるに同じ…」と述べているが、西行にとって歌とは「真言」つまり
佛の言葉だったのである。
西行と崇徳院との関係は殊の外深く、保元の敗戦直後に院がお髪を下ろして仁和寺に
捕われの身となった時にも、いち早くお見舞に馳せ参じているし、その後院が讃岐に
配流された後も、院に近仕する局を介して音信を往返している。このように讃岐配流
後の院のご動静についてもかねて深い悲しみと関心を抱いていたようである。

松山の津

松山の津

坂出市街から浜街道を高松方面へ向かう途中、雄山と雌山の間を抜けた道路沿いに、
崇徳上皇が最初にたどり着いたとされる「松山の津」の石碑と解説があります。
※津とは、港のことで、坂出市周辺では、宇多津や多度津、丸亀市の中津があげれらます。

石碑から海岸線まで、今は約2kmの距離がありますが、当時は浜街道付近まで海だったそうです。