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町名・地名由来(過去)

印刷用ページを表示する更新日:2006年12月1日更新

使われなくなった地名(地図からなくなった地名)

朝日町(あさひまち)

地神社(寿町)の西方は土提石垣の下であって,甘蔗のしめ小屋が残っていたが,次第に家が建つに従い朝日町と名づけたが,明治40年頃,町役場が此花町と改めた。

内浜(うちはま)

 播州より来た人々は武士を捨てて全くの百姓となり,津の山麓北方に新しく塩浜を造り,続いて茶臼山東方の中浜を埋め立てて寄洲の内側を塩浜や畑とし,住居もここに移したので内浜と言い習わすようになった。(寛永初年頃)
 明治の中頃,内浜の田圃の中から塩田窯の土樋(どひ)等の遺物がたくさん掘り出された。
 また寛永14年に江戸幕府は切支丹宗厳禁法度の令を出し,全国に厳しい宗門改めをした時,人々が一同,一向宗に相違なき証明を求めた宇足津(宇多津)西光寺蔵の切支丹文書には,住所を「うちはま」「すか」と書いてあり,その村造りの経過を裏付けする資料である。
 その後,福江村から移り来る者多く,坂出村の者が福江を本村と言ったのもこのためである。

大池原(おいけばら)

 現実とはいえないが,正保二年,松平始祖頼重に仕えた矢延平六の工事になると云われている鎌田上池が出来て以降,この辺りを大池原というようになったという。
 下池は,後築造されたが,文政の末久米栄左衛門が坂出墾田の際,坂本村大束川川上から,この上池に水を引いて用水を満たし,下池の築造に着手したが,やむなき中止に至った。

梅園町(うめぞの)

 明治から大正の初年頃,坂出町の助役に宮野為久という人がいた。
 旧市立病院の東方に住居し俳詣,書画に親まれ俳号を「梅薫園鶯居」と称した。
 この頃は人家少なく寂しい所であったが,大正4年,綾歌郡公会堂が建つにおよび人家は増えた。
 この町を名付けるにあたり,梅薫園より梅園町となり,昭和42年,文京町1~2丁目となった。

海岸町(かいがんちょう)

 港に近い海岸で明治初年まで高松藩の米倉もあり,明治16年には塩産合資会社,同18年讃岐砂糖大会社支店,同25年には坂出名物の両景橋が架設され,同38年専売局の前身塩務局,大正14年には日清製粉坂出工場等がここに建設され,倉庫や問屋が並び,更に,明治43年頃綾氏らによって海岸町と名づけられたが,大正10年,中湛甫が埋め立てられて南北の通りを北海岸町,東西の筋を南海岸町とした。

鍛冶屋町(かじやまち)

 ここは,もともと海岸の堤防石垣の下であって,文政12年,久米栄左衛門は西新開鎮護の神として地神社を祀り,そののち文久年間に地蔵尊を祀られた。
 久米翁築造の大浜塩田の石竈用の鍛冶職人が,当時播州瀬戸田等より来て,ここにその業を始めて,塩田用鍛冶屋が出来たので,かじや町と言われるようになった。

亀島町(かめじまちょう)

 明治38年~昭和41年の通称地名で,東通町の繁栄に伴い,清浜町と前後してできた町である。
 地名は,通町にあった亀島医院の所有地(塩浜)を,住宅地としてできたことによる。
 昭和41年,京町1~3丁目となる。

清浜町(きよはまちょう)

明治38年頃,新開の大清という屋号の須崎氏が,自分の塩浜を屋敷として,清の字に浜の字を付けて清浜町というようになった。

此花町(このはなちょう)

 地神社(寿町)の西方は土提石垣の下であって,甘蔗のしめ小屋が残っていたが,次第に家が建つに従い朝日町と名づけたが,明治40年頃,町役場が此花町と改めた。

古戦場(こせんじょう)

 寛文6年(1666年),高松藩領内の17ヶ所に口銭場を設ける。
 坂出村には,南郷からの入口にあたる津の山東麓に,口銭場が置かれるとあり,これが地名となる。
 古戦場という字は,後世の当て字と思われる。
口銭 ・・・・ 売り上げのもうけ。仲介の手数料。
口銭場 ・・・・ そこを通る物資に,課税し,徴達した処。

幸町(さいわいちょう)

この付近は綿の栽培地であったが,明治16年,綾井忠吉郎は幸町に清道寺を建立し,同年川崎勢松は坂出に初めて長春閣という芝居小屋を建て,後に,寿座の前身である日の出座と改めたが,この頃から人家は増え,この辺りを総称して芝居町といった。
 その後,人家が密集して現在の東西の町筋を,明治40年頃町役場より幸町と名づけた。

堺町(さかいまち)

元はここより東が塩田であったという新町と相前後して,堺屋(鎌田家)所有の土地を屋敷としたので堺町という。

新開(しんがい)

 享保7年(1722年)8月,暴風雨・洪水により,坂出の塩浜(新浜,内浜,宗徳浜など)の大半が壊滅した。
 この復旧に対応して,寛永年間(1624~1644)に築造されていた岡浜(久米町附近)が拡大されてくる。
 岡浜に関係して,働く人々の耕宅地として新しく開かれた所と聞く。
 現在の駅前通,市民ホール付近

新富町(しんとみちょう)

大正12年頃,初めて坂出町営住宅を建てることになり,町役場は新浜の北部にその土地を求めて建築した。
 この時,関係者を招いて当時の島田町長は次のような謝辞を述べた。
「家が建てばその土地は栄える。 土地が栄えば人は集まってくる。 皆さんはそれぞれ職域に大いに励んで海に,陸に,このよき坂出の地の利を用いて栄え富んで下さい。 皆さんが富めば即ち町が富み,町が富めば皆さんのために色々な設備が出来る。 設備が出来れば町はますます発展する。 私は町の発展のため,いかなる困難にもたえ,皆さんと手を引いて乗り越えて進んで行きます。」
と,辞はやさしいが愛町の念に燃えているこの町長に信頼は深まり,町長を名づけ親として,新浜と富士見町の間に出来たこの新しく富んで行く町,すなわち新富町の命名に万雷の拍手を送った。
 現在の富士見町一・二丁目付近

新通町(しんとおりちょう)

 誰からも淋しがられた長の提(ながのて)は,明治30年頃西方に広大な田園(タンボ)を埋め立てて,讃岐紡績株式会社(後に倉敷紡績坂出工場となる。現在はイオン坂出店)が建設され,更に同40年頃には幅広い溝が改修され,同42年頃には東部小学校が新築されるに及んで,急速に人口が増えた。
 当時,町役場より新通町と名付け,大正の末頃新通町を分けて,東新通町,南新通町とし,終戦後,更に伸び行くこの町の北部を北新通町とした。

新町(しんまち)

明治35年頃,古浜塩田の石炭ガラ等で,この塩田を埋め立てて屋敷となり,新しく出来た町なので新町と名づけた。

芝居町(しばいちょう)

この付近は綿の栽培地であったが,明治16年,綾井忠吉郎は幸町に清道寺を建立し,同年川崎勢松は坂出に初めて長春閣という芝居小屋を建て,後に,寿座の前身である日の出座と改めたが,この頃から人家は増え,この辺りを総称して芝居町といった。
 その後,人家が密集して現在の東西の町筋を,明治40年頃町役場より幸町と名づけた。
現在の本町二丁目付近

自由町(じゆうちょう)

東州加と松の中の間にあって,当時北側は倉庫で人家は少なく,いつも両方から挟まれているような窮屈さを脱すべく,自由な立場にありたい一念から明治26年頃独立して自由町とした。

須賀(すか)

 江戸期~明治5年の通称地名で,坂出村のうち元和年間播州から移住した人々が,海面の大寄州を利用して塩田を開墾した。
この寄州を西から西の州,中の州,東の州と呼んでいたが,寛永年間から西すか,中すか,東すかと呼ぶようになった。
 宇多津西光寺への願文に,「すか政処又衛門」と見える。
 州賀とは「州のある所」,つまり寄州のことである。
 後に西州賀が西通町,中州賀が中通町,東州賀が東通町となった。
 現在は,西州賀は八幡町一丁目,白金町一丁目,中州賀は寿町一丁目,東州賀は本町一丁目,元町一丁目となっている。

大黒町(だいこくちょう)

天保の初め,久米通賢翁は東州加より港に至る道路測量中,家屋敷を切り除かれるのを不服とする人々を集めて,坂出発展の将来を説き,「今にここが坂出の中心地となり繁昌して大黒さんが来るぞよ」と,訓え聞かした。
 久米通賢翁が逝いてのち,果せるかな商人が集まり千客万来して,富商軒を並べて翁の遺業をたたえ,大黒町と名付けた。

潰浜(つぶれはま)

 西洲加と中洲加の南側の塩浜は潰して畑や屋敷になり(地名に残る潰浜),八軒屋(西部小学校正門前の道を北に行くと「こんぴら灯籠」があり,さらに北へ少しまで,この付近が八軒屋。)よりの金比羅道は安政の始め頃東へ移って,新浜道(しんばみち)といい,南郷より坂出への街道はこれだけであった。その後次第に人車の往来が多くなったが,人家は少なく明治40年頃町役場より若松町と名付けた。
 大正7年に西部小学校が西通町に建てられ,明治31年中通町に坂出町ほか三ヶ村立坂出高等小学校(勤労福祉センターが建っている付近)が建ったが,これらはみな潰浜の地である。
 この由来には直接関係はないが,明治35年頃中通町より直線に南へ幅広く道路が開けた。この道より讃岐富士が一眸の中に見えるので富士見町と名付けられ,これが県道,坂出貞光線(現:国道438号線)の起点となった。

田町(たまち)

このあたりは,鎌田家所有の田圃であった明治36年頃,その田圃の中に数件の家が建ったので田町というようになった。
 明治42年,花岡先生が和洋裁縫女学校をこの地に新設して,坂出実修女学校と改称した。

鉄砲町(てっぽうまち)

 久米通賢翁は,坂出墾田ののち普請奉行の御役を免ぜられ,天神社境内坂出墾田之碑の西方に,いばらくさびしい日を送っていたが,元来翁は鉄砲作りの名人で,この技術は非常に有名である。
 墾田後,最後の御奉公として翁はここで鉄砲を研究されていたので,人々は翁の造ったこの道筋を鉄砲町と呼ぶようになったのであろうと思われる。

寺町

弘化3年,中新開に久米翁や当時の係り役人だった高松藩士の位牌を祀った西光寺庵寺が建った。(現在綾貸ガレージ附近)
 また,明治12年に初めてここに坂出戸長役場が置かれて,人家は増え,この庵寺があるところから「寺町」と名付けられた。
現在の元町三丁目付近

天神町(てんじんちょう)

 新開の北部で文政年間に,付近に落雷があったことから,天保元年に菅原神社が建てられ,天神社のあるところゆえ天神町と名づけた。

中筋(なかすじ)

 明治5年頃の坂出村の地図には,大黒町と港町の筋から東へ電信電話局(現NTT)の東まで中筋となっている。。
 現在の中筋(市役所の東西の筋)は,昭和4年塩田整理法により廃止塩田となった古浜の中央排水溝を中心とした辺りであり,今の様相を見るとき昔の塩田に比べて今昔の感が深い。

中須賀(なかすか)

 江戸期~明治5年の通称地名で,坂出村のうち元和年間播州から移住した人々が,海面の大寄州を利用して塩田を開墾した。
この寄州を西から西の州,中の州,東の州と呼んでいたが,寛永年間から西すか,中すか,東すかと呼ぶようになった。
 宇多津西光寺への願文に,「すか政処又衛門」と見える。
 州賀とは「州のある所」,つまり寄州のことである。
 後に西州賀が西通町,中州賀が中通町,東州賀が東通町となった。
 現在は,西州賀は八幡町一丁目,白金町一丁目,中州賀は寿町一丁目,東州賀は本町一丁目,元町一丁目となっている。

西幸町(にしさいわいちょう)

明治40年,西光寺が幸町よりここに移転した頃は,住家はまばらで畑が多かったが,大正13年幼稚園が文明町よりここに移ったころには人家は増えていた。
 西幸町は文明町,幸町,かじや町とりどりの町名に区分されていたが,昭和14年頃の自治組合より町内会組織となって,有志と協議の上西幸町と名づけた。

西須賀(にしすか)

 江戸期~明治5年の通称地名で,坂出村のうち元和年間播州から移住した人々が,海面の大寄州を利用して塩田を開墾した。
この寄州を西から西の州,中の州,東の州と呼んでいたが,寛永年間から西すか,中すか,東すかと呼ぶようになった。
 宇多津西光寺への願文に,「すか政処又衛門」と見える。
 州賀とは「州のある所」,つまり寄州のことである。
 後に西州賀が西通町,中州賀が中通町,東州賀が東通町となった。
 現在は,西州賀は八幡町一丁目,白金町一丁目,中州賀は寿町一丁目,東州賀は本町一丁目,元町一丁目となっている。

西浜(にしはま)

 昭和の初め坂出築港第一期工事の時,沖湛甫を囲む松林の丘の北と西の海を埋め,約4万5千坪の広い埋立地に東洋物産を始め各社の大倉庫が建ち並び,厖大なる移出入の貨物保管に万全を期した。
 その後坂出塩業組合の大製塩工場が建ち,さらに県経済農協連の鉄筋倉庫なども建築されて,全く面目を一新した。
現在の築港町二丁目付近

東浜(ひがしはま)

 西浜の埋立が出来てのち,昭和5年頃より港内の浚渫土砂で埋立てた5万余坪の広い土地で,昭和11年四国ソーダ株式会社の工場が建ち,これが東亜合成坂出工場となり大日本木材防腐,住福燃料等の工場ができ工場地帯を形成するに至った。
現在の昭和町二丁目付近

東須賀(ひがしすか)

江戸期~明治5年の通称地名で,坂出村のうち元和年間播州から移住した人々が,海面の大寄州を利用して塩田を開墾した。
この寄州を西から西の州,中の州,東の州と呼んでいたが,寛永年間から西すか,中すか,東すかと呼ぶようになった。
 宇多津西光寺への願文に,「すか政処又衛門」と見える。
 州賀とは「州のある所」,つまり寄州のことである。
 後に西州賀が西通町,中州賀が中通町,東州賀が東通町となった。
 現在は,西州賀は八幡町一丁目,白金町一丁目,中州賀は寿町一丁目,東州賀は本町一丁目,元町一丁目となっている。

文明町(ぶんめいちょう)

 安政二年,簡易水道が新浜から塩竈明神前まで引かれ,井戸に導水されて用水は便利になり,明治の新政となり寺子屋は廃止され,明治六年,鎌田正平氏が私費を投じ西新開のここに県下最初の坂出学校を建てた。
これが今の坂出市立中央小学校である。
 更に,同十九年この北方に,鎌田勝太郎氏は浜田金五郎氏ら有志と共に,私財を投じて坂出済々(せいせい)学館を創設して,文化の中心となったので,文明開化の町として文明町となった。
 現在の中央小学校付近

松風町(まつかぜちょう)

 昔から薬師堂の地名があって,明治34年県立商業学校がここに創立されたが,その後大正2年に高松市へ移転のやむなきに至り,同年より県立師範学校女子部(現在,県立坂出高等学校)がここに転じて来た。
 昭和14年頃,自治組合を組織したとき,町名を改めるべく協議会を開き,この辺りは昔,松林であり女子師範学校南庭の松林は今も残っている。
昔の戦場であったことを偲び,松吹く風松風町に一決した。
現在の文京町1~2丁目

松ヶ枝町(まつがえだちょう)

 大正12年,東通町から鉄砲町へ貫いた道の両側で,大部分が松の中分であり,松を切ってその中を通した道だから松の枝の町,すなわち松ヶ枝町とした。

明神町(みょうじんちょう)

 天保8年,塩竃神社を中湛甫からここに遷宮した。
 塩竃神社の前通りの町筋ゆえ明神町と名づけた。

谷内(やない)

 字の如く笠山と金山に挟まれた谷間にあって,主に新浜を造った人々の家族が増えるに従い,塩浜造りに適地を求めたのがここで,今の田圃の形を見ても,塩田であったことが理解できる。
 また,山地姓の多いのもその一つである。
現在の谷町付近

横洲(よこす)

 坂出(村)の東端を南北に長く横たわっていた寄洲で,天皇,白峯宮に近く東方より埋立てて,元禄の始め頃には人家があったことがお寺の過去帳等でもよくわかる。
 また,元禄の末頃(約300年前)の往来日記に,横洲に商人や宿屋も出来ていた,と書いてある。
 現在の横津町

若松町(わかまつちょう)

 西洲加と中洲加の南側の塩浜は潰して畑や屋敷になり(地名に残る潰浜),八軒屋(西部小学校正門前の道を北に行くと「こんぴら灯籠」があり,さらに北へ少しまで,この付近が八軒屋。)よりの金比羅道は安政の始め頃東へ移って,新浜道(しんばみち)といい,南郷より坂出への街道はこれだけであった。その後次第に人車の往来が多くなったが,人家は少なく明治40年頃町役場より若松町と名付けた。
 大正7年に西部小学校が西通町に建てられ,明治31年中通町に坂出町ほか三ヶ村立坂出高等小学校(勤労福祉センターが建っている付近)が建ったが,これらはみな潰浜の地である。
 この由来には直接関係はないが,明治35年頃中通町より直線に南へ幅広く道路が開けた。この道より讃岐富士が一眸の中に見えるので富士見町と名付けられ,これが県道,坂出貞光線(現:国道438号線)の起点となった。
 現在の寿町一丁目付近