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白峯天狗伝説 相模坊大権現

コスモス
印刷用ページを表示する 掲載日:1998年11月13日更新
相模坊大権現 白峯山の相模坊天狗(通称「さがん坊」)については,およそ讃岐の地方史には例外なくとりあげており,そのほか,室町初期に世阿弥によって書かれたと伝えられる謡曲「松山天狗」や,明和五年(1768)に上田秋成によって書かれた「雨月物語」の「白峯」のくだりなど,数多くの史書や文献に登場してくる。

 このように,日本における八天狗の一狗といわれる相模坊天狗が,昔から輝かしい歴史の一頁を飾るには,そこにはそれなりの深い理由があってのことである。

(註)
 日本八天狗
  大峰の前鬼・後鬼(奈良・和歌山)
  愛宕山の太郎坊 (京都)
  比良山の次郎坊 (滋賀)
  飯綱の三郎   (長野)
  鞍馬の僧正坊  (京都)
  白峯山の相模坊 (香川)
  相模大山の伯耆坊(神奈川)
  英彦山の豊前坊 (福岡)

  保元元年(1156),皇位継承の争いから近親背反の戦いとなり,ついに保元の乱という悲劇を生む。
戦いに破れた崇徳上皇は,この戦いの責任を負わされ,遙か西海の果て讃岐の松山に配流の身となり,配所鼓岡に月を眺めること九年,再び都へゆるされることなく,望郷の思いを胸に秘めながら長寛二年(1164)八月二十六日,御年四十六歳の悲運のご生涯を閉じられた。
上皇(当時は新院,のち讃岐院と称し,さらに治承元年(1177)七月に崇徳院と尊称)の玉体は,白峯山の稚児ヶ嶽巌上で荼毘(火葬)に付され,この地にご陵墓がいとなまれた。
これ即ち白峯御陵である。

 白峯山の相模坊が数ある天狗をおさえ,八天狗の一狗に数えられて天狗界で確固とした古参天狗の名をほしいままにするのは,崇徳上皇が亡くなられてから後,ひたすら上皇のご霊前に仕え,夜な夜なご陵に伺候しては上皇のみ霊をお慰め申し上げ,また多くの眷属を従えて白峯の聖域を護り,今もなお守護しつづけていることによるものだとされている。

 延宝年間頃(1673~1680)に高松藩の松平家に仕えた小西可春は,その著「玉藻集」のなかで,
 「崇徳院保元の乱にこの国に遷され絵い終に崩御この山に葬り奉る 左の殿は千手観音右の殿は相模坊形天狗 本地不動にて南海の守護神なり・・・・・」
としるし,崇徳院を祀る頓証寺殿の相殿に相模坊が祀られているとしている。