ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

町名・地名由来(現在)

コスモス
印刷用ページを表示する 掲載日:2013年12月18日更新

現在使われている町名

旭町(あさひまち) 

昭和41年からの行政町名。もとは横津町・久米町の一部で,東にあって朝日が一番早くあたることによる。

青葉町(あおばちょう)

海岸線から約2キロも奧まった住宅地だが,天生年間(1573)までは海岸だった。
坂出高校内にある老松の並木はその名ごり。
聖通寺山に城を構えた奈良太郎左衛門元安は,土佐の長曽我部元親に攻められ,この松林で迎え打ったが敗れたと,文書に記録されている。
町名整理までは松風町と呼んだ。

入船町(いりふねちょう)

昭和39年に町名を整理した際,坂出港に出入りする船を宝船に見立てて名づけた。
昭和5年から西浜地区の埋め立てのあとをうけ,坂出港内のしゅんせつ土砂で,約16万平方メートルの工業用地を造成,東亜合成,大日本木材防腐,住福燃料などの大口工場を誘致した。これが塩業一辺倒から「工業都市」のきっかけとなった。

岩黒島(いわくろじま)

「奈良・大峰山のオロチ退治のため,瀬居沖の岩の上で修行をつんだ理源大師(讃岐五大師の一人)が,法力を試そうと「島の土は赤く,岩は黒くなれ」と呪文をかけたところ,海岸の石が黒くなった」と民話集にある。

駅前通(えきまえどおり)

明治30年に讃岐鉄道(現:JR)が開業,水田の中に坂出駅が設けられた。
駅から坂出港へ新しく道路が設けられ,駅前通と名付けられた。。
昭和13年に坂出港中央突堤の工事が始まり,同18年に駅と中央突堤の間に幅11メートルの道路が開通。
食塩や港頭地帯の製粉工場,化学工場からの製品運搬でにぎわった。

江尻町(えじりちょう)

大きな穎(えい)に似た悪魚の頭が魚御堂にあり,尾ひれがここであったため穎(えい)の尻,江尻という全く嘘のような話の種である。
江尻という地名の発祥は不明だが,地形を見ても,昔綾川の下流が非常に広く,江(川とも読む)の尻,すなわち江尻といったのではないだろうか。
文政12年,久米栄左衛門により江尻村北方の海を埋め立てて,畑二十七町余りが出来たことは有名である。

王越町(おうごしちょう)

梅宮八幡宮の社伝によると,神功皇后三韓遠征のおり,木沢の浜に立ち寄り,宮崎ノ鼻(王越山)を越え,梅宮宮に戦勝と安産を祈願されたことから生まれたとある。
三方を五色台に囲まれ,北は瀬戸内海に面した半農半漁の地。
昭和三十一年七月,坂出市と合併した。

青海町(おうみちょう)

青海川伝いに入り江だったため生まれた町名。
松山の津につながり,崇徳上皇の御陵参りは,いまは白峰山西斜面の高屋町が登山口になっているが,昔は青海の入り江を利用した東斜面に登山口があったと考えられる。

大池町(おおいけちょう)

現実とはいえないが,正保二年,松平始祖頼重に仕えた矢延平六の工事になると云われている鎌田上池が出来て以降,この辺りを大池原というようになったという。
下池は,後築造されたが,文政の末久米栄左衛門が坂出墾田の際,坂本村大束川川上から,この上池に水を引いて用水を満たし,下池の築造に着手したが,やむなき中止に至った。

大屋冨町(おおやぶちょう)

坂出と合併直前に,大藪を大屋冨に改名。
不毛の地だった地区が,繁栄するようにとの住民の願いがこめられている。

笠指町(かざし町)

讃州府志に,笠指はもと笄(かんざし)山,または挿(かざし)山といい,昔,行基菩薩が来られて説教した時,竜の女神が姿を現してこの山に玉のかんざしを残して昇天したので,山頂に竜神を祀り笄(かんざし)山というようになった。
笄は,かうがい,またはかんざしの意味で略して「かざし山と読む」と書いてある。
このかざし山を笠山といい,竜の里を指して笠指といったものだろうか

金山村(かなやまむら)

明治二十三年,市町村制実施の時,それまでは福江,江尻,西庄の三村連合で江尻村へ役場を置いていたが,この時西庄村を分離して福江,江尻の二村が合併した。
この合併で,新しい村名を付けるため村会で協議したところ,もめにもめたという。
この時,長老の北次五衛門は,金山の偉容をたたえ,次いで伝説,史実に依る悪魚退治,城山長者,また崇徳院御骸を御浸し申した野沢井の霊水(八十場),昔この金山に由縁り深く且つ綾北問尋抄にある,行基菩薩がこの金山に薬師像を彫った石像を安置して,これが野沢井霊水の云源である等との述懐に,皆々感嘆して村名を金山に一決したと云う。

加茂町(かもちょう)

弘仁年間(810-824),弘法大師の伯父・阿刀大足が,京から迎えた加茂神社の社名をとった。
大明神原から出土した銅鐸や,綾川を隔てて国司庁が設けられたことからも,早くから讃岐文化の中心地だったことが推測される。
昭和26年4月に坂出と合併。 東に五色台,南に城山,北に瀬戸内海をひかえて風光にも恵まれている。

川崎町(かわさきちょう)

番の州埋立地進出第一号の企業,川崎重工業坂出造船所の社名を取った。

川津町(かわつちょう)

その昔,土器川河口の入り海だったところで,西に鵜足の洋(宇多津町),東に福江の浦(福江町)がある。
「入り江の川津は船の泊地なり・・・」と,天平年間の古文書にある。
寛永年間に,藤堂高虎の家臣・西島八兵衛が土器川を改修し,河口を丸亀に付け替えたという。

神谷町(かんだにちょう)

昭和31年7月,坂出に合併した旧松山村の字を引き継いだが,上古の祭祀の慣わしから,山岳宗教のメッカ五色台の神が降ってきた谷間があり,その名が由来と伝えられている。
鎌倉時代初期には神谷神社(国宝)が建立され,信仰が広まった。
五色台西ふもとは耕地に恵まれ,綾北穀倉地帯の一角である。
急速に進む開発の中で,自然を保持している。

木沢(きさわ)

東・西・南の三方は険しい五色台山塊の峰によって囲まれ,北は瀬戸内海,東は香川郡(現:高松市)との境となり,西は王越山によって乃生と寸断されている。
地名の由来は,海岸近くの平坦な湿地帯に巨木が生い繁っていたことによるという。(王越村史)
海浜集落で周辺に大崎山古墳・烽(のろし)台跡があり,海上交通の上で重要性をもっていたと考えられる。

京町(きょうまち)

町名整理の際,縁起のよい町名にと選んだ。
明治維新から塩業従事者が多かった。

久米町(くめちょう)

鳥洲と云ったところは,昔は横の洲の北端であって寄洲が高く,いつも沢山鳥が下りていて魚貝を啄んでいたので,鳥洲と言ったと云われている。
久米通賢翁は,東大浜塩田竣工後,引き続いて江尻の海を埋め立てて畑とした江尻新開を墾田し,古浜田北堤に道をつけ,文政十二年に潮留神社をここに創祀したので,追々と人家が増えて,昭和十五年頃有志により久米通賢翁の苗字をそのまま久米町と改称した。

寿町(ことぶきちょう)

昭和41年からの行政町名。
寿町一丁目は,富士見町・中通町の一部,若松町の大部分。
二丁目は,中通町・鍛冶屋町・西幸町・此花町の一部。
三丁目は,文明町・宮下町の一部,西幸町の大部分。
昭和51年,坂出市公民館が坂出中学校跡に移転。同52年,坂出市勤労福祉センターが開館。同53年,坂出市郷土資料館が開館。同54年,坂出市立大橋記念図書館が落成。  地名はもとの幸町の幸(さいわい)と新しく町が誕生してめでたいという意味で寿町と名づけた。

御供所町(ごぶしょちょう)

景行天皇の御代武殻王が,大きな悪魚(坂出の民話のページ参照)を退治して城山に留まり,当地方を治められたが,讃岐国内御巡視の途中,聖通寺山,東北道の海岸で病になったが,その時里人が看護を申し出,麦をかもして酒を造って差し上げたところ,元気を取り戻され,この里人を鵜足郡へ向かわせられた。
これにより,この地を御供所というようになったと伝えられる。
また,里説には崇徳上皇御配流の時,このことがあって御供所となったとも云われる。
明治の頃まで,この御供所に麦酒を造る風習が残っていたが,その始まりは今のところわからない。

駒止町(こまどめちょう)

大正十一年,讃岐に陸軍による大演習が行われて摂政宮殿下が三軍を御統監になった。
爽涼の秋,朝早く演習地に駒を進められた折り,行く手にそびえる讃岐富士を見て,「暁に駒を止めて見渡せば讃岐の富士に雲ぞかかれる」と詠まれた。
この御歌を記念して,この頃に出来た道筋を駒止町と名付けた。 昭和二年,琴平参宮電鉄は丸亀から延長してここを終点とし,また同五年には琴平急行電鉄を設立して,ここを起点として琴平へ開通して坂出と琴平を結んだ。

小山町(こやまちょう)

鎌田池の西にある山の名を取った。
正保二年(1645),矢野部伝六によって鎌田上池が築造され,このあたりを大池原と呼んで親しまれていた。
下池はその後に設けられたが,文政年間に久米栄左衛門が拡張,大束川から用水を導き,久米翁の築造した塩田とともに田畑をうるおし,坂出発展の原動力となった。

坂出(さかいで)

慶長五年,赤穂は池田輝政の五男松平右京太夫の所領となったが,その藩政に耐えかね,他国へ移住するものが多くみられた。
その中の赤松,淡河,須崎,浜,田中,多々羅,山地,津山等,別所の亡臣等はその一族と共に,慶長の中頃から元和の頃にかけて,讃岐国阿野郡(北条郡とも云った)乃生,木沢,青海,高屋,坂出,那珂郡塩屋,三野郡詫間に渡海して来た。
その多くは当地,津の山麓辺りに仮住して,北方より東北方へ拡がる遠浅の海に築提して塩浜を築き,郷里の赤穂大石,北付近で習い覚えた塩づくりをはじめた。
これに福江村の人々も加わり,一つの集落をつくった。
これを見た宇足津(宇多津)の人が,「坂(田尾坂)を出るといつの間にか所々に家が建ち,寄洲を埋め立てて村が出来ている」と驚き伝えた。
それから坂出というようになったと,宮崎栄立民賊物語や古文書に書かれている。
これがおそらく坂出という地名の由来と思われる。

新浜町(しんはま)

赤穂から移住した人たちが武士を捨て,津の山(角山)ふもとの寄り州で,製塩や農業を始めたので新浜と呼ばれた。
いまも,舟をつないだ石が名残をとどめている。

白金町(しろがねちょう)

昭和41年からの行政町名。
白金町一丁目は,若松町の一部,西通町の大部分。
白金町二丁目は,西通町・此花町の一部。
白金町三丁目は,此花町の大部分,宮下通りの一部。
町の繁栄を願って多数決により白金町と決定。白金(はくきん)=プラチナは,繁栄,富裕に通ずるからである。

沙弥島(しゃみじま)

左美島がなまって沙弥島になったと玉藻集にある。
万葉歌人の柿本人麻呂が立ち寄り,短歌一首と返歌二首を作ったことは有名である。
縄文時代から製塩文化が開け,ナカンダ浜の当時の遺跡は,郷土史研究に貴重な材料を提供している。
昭和42年12月,番の州工業地帯と陸続きとなり,これまでの漁業中心から脱皮したが,地名は昔のまま残っている。

瀬居町(せいちょう)

三味線島の伝説に由来する。(坂出の民話のページ参照)
昭和28年4月,仲多度郡与島村が坂出に合併,同村瀬居が瀬居町となった。
番の州工場地帯と陸きとなって,住民の生活様式は一変した。

高屋町(たかやちょう)

保元の昔,讃岐に流された崇徳上皇が上陸された松山ノ津(松ヶ浦海岸)を管理していた,高床館が設けられていたのが由来。
白峰山登山口にある高屋神社は,讃岐路で亡くなられた上皇の遺体を白峰山に葬る際,奉葬の一行が休憩所にあてたことで有名。
景色に恵まれており,坂出市との合併までは,旧松山村の中心地だった。

谷町(たにまち)

市街地を囲む笠山と金山の”谷間”の意味をもっている。
寺の過去帳や往来日記などでは,昔は海だったが,久米栄左衛門とともに,塩田を造った人たちの家族が増すにつれ,新しい塩浜を造ったのがこの付近だとされている。
現在は塩田は全くないが,水田の形状が塩田の仕切り方とよく似ており,かつて塩田だったことを物語っている。

中央町(ちゅうおうちょう)

市街地の中心部を占め,中央小学校区内にあるということで,名づけた。
天保八年(1837)塩田の神,塩釜神社を中湛甫から移したが,この神社の前の通りになるところから,昭和39年(1964)に住居表示が行われるまでは,明神町と呼ばれていた。

築港町(ちっこうちょう)

塩を積み出す地方港にすぎなかった坂出港が,昭和3年からの大改修事業で,県下で初めての貿易港になり,市の金看板になった縁起のよい町名。
背後地の広大な塩田こそ姿を消したが,代わって港域の一角に番の州工業地帯が出現。
また東,西,両大浜塩田(約100ヘクタール)は区画整備事業が進められた。

常盤町(ときわちょう)

ここは宮武新田といって,天明の昔林田村の宮武という郷士が埋め立てて墾田した所で,昭和十四年県立坂出工業学校が建築された。
終戦後は,県や市の住宅が多く建ち並び,町を形成するに至り,昭和二十七年六月,市の広報で市民の数多き応募の中から,津島寿一先生の選んだ常盤公園の通路にちなんで,町の有志が協議して常盤町と名付けられた。

西庄町(にしのしょうちょう)

奈良時代の荘園制度を受け継いだとされている。
城山のふもとだったことから,初めは山本庄と呼ばれていたが,条里制が敷かれ,綾川東地区の鴨(加茂町)を東庄としたのに対し,西側地区を西庄と呼んだともいう。
弘法大師はこの地名に摩尼珠院「高照院」(七十九番札所)を創建した。
昭和11年9月,坂出に合併。

乃生(のう)

木沢と同じく,交通の未発達な時期にあっては陸の孤島となる地形である。
地名の由来は,神功皇后三韓遠征の折,西海への途次ここで懐妊に気づき,進軍をとめて大小の神々に「凱陣の時乃生させ玉へ」と祈ったことによるという。(王越村史)

八幡町(はちまんちょう)

坂出市民の氏神さんの,坂出八幡宮の名をとった。

花町(はなまち)

伝統を誇るシクラメンなど,花づくりが盛んなところから,昭和40年に誕生。

林田町(はやしだちょう)

鎌倉時代に,波以多(はいた),波夜之陀(はやしだ)などと呼ばれていたものが,なまって林田になったと古文書に書かれている。
綾北一万石の名を生んだ穀倉地で,いまも条里制の跡が当時を偲ばせている。
昭和17年7月,坂出に統合。 崇徳上皇ゆかりの綾高遠の館(雲井御所),細川清氏と同族の細川頼之合戦の地など,史跡に満ちている。

番の州町(ばんのすちょう)

香川県の産業構造の体質改善のため造成された番の州工業地帯の完成を記念して,昭和四十四年に命名。
四国電力坂出発電所,三菱化学坂出事業所が立地している。

番の州公園(ばんのすこうえん)

番の州埋め立てに伴い工業地帯との緩衝緑地として整備された緑地があるところの地名。番の州球場,サッカー場,番の州プールなどがあり,市民の憩いの場所となっている。

番の州緑町(ばんのすみどりまち)

番の州工業地帯(埋立地)のキャッチフレーズ“緑と太陽”にあやかって,昭和四十八年三月に誕生。
百四万平方キロの番の州二期用地で,コスモ石油坂出製油所がある。

櫃石島(ひついしじま)

島の南にある,櫃を立てたような櫃岩と呼ばれる岩の名に由来する。
源平の昔,屋島の戦に敗れた平家の武者が,落ちのびる途中に立ち寄り,島の南端にある櫃岩の下に宝物を隠し,三人の官女を島にかくまったとされ,平家の残党狩りにも,島民が官女を守り通したという言い伝えがある。

福江町(ふくえちょう)

讃留霊王(武殻王)に退治された大きな穎(えい)のような悪魚の腹が漂着したところが福江の浦で,この悪魚の祟りを恐れて後年,魚御堂を建てたと讃留霊公紀に書いているが,崇徳上皇が崩御されて後深草天皇の康元元年,京都に崇徳院御影堂が建ちその後南北朝の延元三年福江は御影堂の御料地となり,お年貢を福江丸という船で送ったと長禄四年に記録されているので,その頃は福江の下より西方,津の山麓北方は海であって福江の下は海が深く船着に便利であったので深江(深い川,海の意味)とも言ったが,御料地となって誉れ高く,村はよくなって福江と云うようになったようである。
小山の西麓を乃生見(のふみ)の鼻といっているのは,ここより海を隔てて乃生岬が見えるからであろう。
今の地形から見て,福江の田は土器川が流れ込み,その川の三角州が埋立てられたものと思われる。

府中町(ふちゅうちょう)

大化元年(645),国府が設けられ讃岐の政治文化の中心として府中の名が生まれた。
代表的な国司は菅原道真で,その後,保元の乱により讃岐に流された崇徳上皇が,崩御されるまでの六年間,写経生活をしながら京をしのばれたのもここである。
昭和二十九年四月,坂出市と合併。 番ノ州工業地帯に【命の水】を送る県営府中ダム(府中湖)や高松道府中パーキングエリアなどがある。

富士見町(ふじみちょう)

明治35年,市の中心部を南北に幹線道路が完成(現在の県道貞光線)。
讃岐富士が一望できたことから名づけられた。

文京町(ぶんきょうちょう)

その名の通り学校街。
明治34年に県立商業(高松に移って高松商業となる)が創立されたのをはじめ,香川女子師範学校(香川大学の前身),大正時代に綾歌郡立商業(現・坂出商業),坂出女子高(現・坂出高校)のほか,香大附属幼,小,中が設けられ,文教の中心となった。
その昔,一帯は海岸で,遍歴中の僧行基が,漂着した魚の白骨を集めて魚御堂に祀ったとも伝えられる。

本町(ほんまち)

かつて,塩田築造に必要な金具を作った鍛冶屋が軒をつらねた鍛冶屋町,塩の積み出し港として繁栄した港町,その他寺町,芝居町など,市内には久米栄左衛門ゆかりの地名が多いが,坂出発展の「元」の意味から生まれた町名。
昔,このあたりには商店が軒を連ね,商業地帯としてにぎわった。

松山村(まつやまむら)

綾川右岸の沖積地下流にあたり,東は白峰山塊に沿って瀬戸内海にまで続く。
松山の津は古代の港であり,綾川の上流にある国衙(こくが)の玄関口であった。
地名の由来は,この地に配流され没した崇徳天皇の,「浜千鳥 あとはみやこにかよへども 身は松山の音をのみぞなく」の歌にちなむものという。
明治23年~昭和31年の自治体名。高屋,青海,神谷の3ヵ村が合併して成立した。
はじめ阿野郡,明治32年からは綾歌郡に所属。

港町(みなとまち)

港に近い通り筋で自然に港町と言うようになった。

宮下通(みやしたどおり)

株式組織の坂出グランド(今の坂出工業高校グランド)が宮武新田に出来たのは,大正十三年であった。
このグランドに通すべく塩釜明神境内より西へ道路を開いた。
昔はこの道をグランド道と言っていた人もいたが,この道にぽつぽつ家が建ち始め,昭和の初め頃,町名を付けるにあたり論議の末,お宮さんの下通り,すなわち宮下通に決定した。

室町(むろまち)

昭和40年に実施された住居表示の際,日本の政治が円滑に行われた室町時代の名にあやかった。
坂出でも早く塩田が設けられた古浜跡地だが,昭和32年に市役所が新築移転され,周辺に電報電話局(現在NTT),郵便局,保健所,消防本部などの官公庁が勢揃いし,市行政の中心的な役割をはたしている。
市役所の設置で,市勢は東方に移った。

元町(もとまち)

明治12年,旧坂出村の村役場が設けられた。
また,”坂出の父”久米栄左衛門が,大黒通を建設するに当たって,「ここが坂出の中心地として繁盛する」と予見した通り,明治になって急速に商業が発達,ことに大黒通は目抜き商店街となるほど,市を形づくる原点にあやかった。

横津町(よこづちょう)

坂出の東端を南北に横たわっていた寄り州の名を取り,昔は横州と書いた。
古文書ではすでに元禄のころから人が住みつき,商家や宿屋もあって,人の往来が活発だったという。
坂出の中では商業地として早くから開けたらしいが,これは郷照寺(78番)と天皇寺(79番)を結ぶコースだったためでもあろう。

与島(よしま)

「与島」という由来は見あたらない。
織田信長は,塩飽水軍六百六十人を人名(にんみょう)に取り立て,塩飽七島を天領として千五百石の扶侍を与えた。
本島(丸亀)を本拠とし,与島に六十人の人名が移り住んだといわれ,政治的な地名といえる。